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sleep like a baby

映画『セッション(2015)』感想

はじめに


遅ればせながら、2015年公開の映画『セッション』(原題:Whiplash)を観ました。きっかけは、アマゾンプライム。って書くとなんだかコマーシャルの宣伝文句みたいだけれど、たしか「星4つ以上の作品」カテゴリーにあったと思います。

わたしはあんまり映画に詳しくないので、この作品のことも、監督さんや役者さんたちのことも、はじめて知ることばかりでした。ビッグバンドでセッションをした経験なんてなければ、まともに楽器をならったこともありません。でも、そんなプロ素人なりに思うところがたくさんあったので、IT社長みたいにろくろをまわしながら語ってみます。

映画情報

英題:WHIPLASH
製作国:アメリ
公開年:2015
監督・脚本:デイミアン・チャゼル
キャスト:マイルズ・テラー
    J・K・シモンズ

あらすじ


アンドリュー・ニーマンは、世界的なジャズ・ドラマーを目指して名門音楽大学へ入学した19歳。人付き合いの苦手な彼が、友だちも作らずひとりで練習に励んでいたところ、伝説の鬼教官テレンス・フレッチャーから声をかけられる。

異常なほど演奏の完璧さにこだわり、いちどダメだと判断したバンドメンバーは容赦なく切り捨てる。そんな彼のお眼鏡にかなったとあれば、ジャズドラマーとしての成功は保証されたようなもの。そう意気込むニーマンを待ち受けていたのは、あまりにも狂気的なレッスンだった。

ネタばれなし感想

愛かパワハラ

スパルタ鬼教官と教え子の確執を描いた作品。なぐる・どなる・椅子をぶん投げる、とありとあらゆる手段で生徒をしごいていきます。あまりにもその描写がアグレッシブなので、(この先生、そろそろモーニングスターを振り回すんじゃないかしら……)と、中世の武器を思い浮かべるなどしてしまいました。

ジャケット写真といい映像といい、この二人のまわりが真っ暗な演出がちらほらあります。夢を追うということは、まわりが見えなくなるくらい盲目的になりやすいってことなのかも。

そしてそして、音楽がとってもかっこいいのです。ジャズのジャの字も知らないわたしですが、本編で演奏される『Whiplash』と『キャラバン』って曲がずっと頭から離れません。

ウィップラッシュ

ウィップラッシュ

  • ハンク・レヴィ
  • サウンドトラック
  • ¥250
かっこいいなあ。こういう曲はどこへ行けば聴けるのでしょう?

ネタばれ有り感想

求道者の苦悩

自分の限界を乗り越えて、夢を追いかける……そんな人物を描いた作品に触れると、わたしは「よし!わたしもがんばろう!」と前向きな気持ちになることが多いです。ただ『セッション』の場合は、そうした感情はまったく沸き起こりませんでした。

いま、自分のなかにある感想は「夢と信念に取り憑かれた人間は、一生その呪縛から逃げられない」ということです。ニーマンの親戚がそうだったように、どれだけ周囲の人間が「安定した暮らし」の良さを説き、理想をバカにして鼻で笑おうとも、決意を打ち砕くことにはならないのでしょう。

それどころか、もしかすると余計に火がつくかもしれませんね。なにおう!見返してやらあ!って。それはもう本人が選んだ人生で、ある意味彼らは、ずっと孤独に生きるしかない。きっとひとつ目標を達成したら、その瞬間にもう過去の自分に不満が出てきて、もっともっとって新たな理想を求めてしまいそうだもの。

こう書くとなんだか悲劇的なようだけれど、それだけ何かに夢中になれる人生は、その覚悟は、とても魅力的だとも感じます。事実わたしは、夢と信念にとらわれた鬼教官フレッチャーにとっても興味しんしん。鑑賞してからというもの、日がな一日、この人物のことばかり考えているのです。

何がそこまで彼を駆り立てているのかしら。どうしてああまでも、スパルタな指導をするのかな。おおフレッチャー、どうしてあなたはフレッチャーなの。あたまの上に浮かんだクエスチョンマークはどんどん増えるばかり。

というわけで、ここからは鬼教官に焦点をあてていきます。

フレッチャーを知るための5エピソード

夢と信念にとらわれた生き方

作中で実年齢が語られることはありませんが、その風貌から察するに少なくとも50代以上のお年だと思います。

家族や友人との交流はほとんど描写されず、嗜好品や身だしなみにお金をかけている様子もありません。そんな人生こそがすばらしいというわけでは勿論ないのだけれど、果たしてこの人は夢のためにどれだけのものを犠牲にしてきたのだろう?と思えてなりませんでした。命を削ってでも夢をかなえようとする生きざまは、壮絶の一言に尽きます。

指導者のジレンマ

フレッチャーへ襲い掛かったことが原因で退学処分となったニーマンと、元教え子への行き過ぎた指導を密告されて辞職処分となったフレッチャー。二人はある日、ニューヨークのライブハウスで再会を果たします。学校を離れたその場所では、はじめてフレッチャーの本心が語られました。

実際、私の事などーー誰も理解してない。
学院で何を目指してたか。
誰でもできる。腕を振って拍子を取るだけなら。
私は皆を期待以上の所まで押し上げたかった。それこそが、絶対に必要なんだ。
でなきゃ現れない。次のサッチモも――チャーリー・パーカーも。『セッション』


フレッチャーが指導者として名門校の教壇に立っていたのは「次の天才ドラマーを生み出すため」だと語られています。その代表格としてチャーリー・パーカーの名前を挙げ、彼が挫折を乗り越えて成功したエピソードを続けました。

十代の彼はサックスの名手だが、ジャム・セッションでヘタを晒した。
ジョージーンズにシンバルを投げられ、笑われてステージを降りた。
その夜は泣きながら寝たが翌朝は?
練習に没頭した。来る日も来る日もひとつの誓いを胸に。二度と笑われまいと。
一年後、またリノ・クラブへ。
因縁のステージに立つと、史上最高のソロを聴かせた。

もしジョーンズが言ってたら?
”平気さ、チャーリー”、”大丈夫、上出来だ”。
チャーリーは満足、"そうか、上出来か"。
――"バード"は生まれていない。
私にしたらそれは究極の悲劇だ。『セッション』


「こういうたしかな事実があるからこそ、自分は苛烈な指導を徹底してきた」ということですよね。
気心の知れた仲間に囲まれ、ぬるま湯に浸かった状態では停滞してしまう。失敗したときにはとことん唇をかみしめて、期待と不安と、自分は無能な奴だという自己不信感を絶えず持っているくらいの方が、おおきく成長できる……そう言いたいのかな。

だが世の中甘くなった。
ジャズが死ぬわけだ。
明白だ。
カフェあたりで売ってる"ジャズ"のCDが証明してる。
英語で最も危険な言葉はこの2語だ。
"Good job.(上出来だ)"『セッション』


ここでニーマンが「でも一線がある。あなたはやりすぎて、次のチャーリーを挫折させたのでは?」と問いかけると、フレッチャーはすかさず「いいや。次のチャーリーは何があろうと挫折しない」と返します。

正直に言えば、育てられなかったんだ。
努力はした。
それこそ必死に、なみの教師にはできないほど。
それを謝罪する気はない。
必死の努力を。『セッション』


この言葉を聞いたとき、フレッチャーのジレンマが少し理解できたような気がしました。「自分の手で天才ドラマーを育てたい」という夢へ熱を注げば注ぐほど空回りして、ときには自分の手で教え子を壊してしまうこともある。当然、お互いに時間的な限りもある。そこには何か、信念にとらわれた者特有の苦しみがあるようにも感じました。

ただ、個人的にはどうしても、体罰を肯定する気にはなれません。フレッチャーの「目的を達成したい」情熱は理解できるのですが、そのために手段を正当化しようとしているように見えるんだもの。

にんげんがおおきなショックを受けたとき、それまでとはくらべものにならないような力が生まれる……というのは、よくわかります。失恋したり挫折を味わった人が、次の試合で良い結果を出すのって、よく聞くものね。

だからそういう意味では体罰も、手段としては合っているのかもしれません。

でもね、やっぱり暴れる力を行使するのは好ましくおもいません。うう、なんとかフレッチャーせんせいに漫画『翔太の寿司』をお届けできないかしら……親方が、カッとなって拳をふりあげようとする主人公をいさめる、とっても素敵なおはなしがあるのです。

「翔太!寿司職人の手は寿司を握るためのものであって、人を殴るためのものじゃない!」って。

というのは冗談半分にしても、フレッチャーのやり方はあきらかに常軌をいっしているとおもいます。

チャゼル監督の言葉

『セッション』の脚本も手掛けているデイミアン・チャゼル監督は、インタビューのなかでこう語っていました。

チャゼル監督:フレッチャーのようなキャラクターを創ったのは、(生徒が)素晴らしい演奏者になるために、どこまでやっていいのかというジレンマに焦点を当てたかったんだ。そこを強調するために、もっと怖くて意地悪なキャラクターにしたんだよ。ガジェット通信


また本作品は学生時代にドラムをやっていた監督ご自身の経験にもとづいているとのこと。スパルタ的な指導があまりにもつらすぎて、いまでも悪夢を見るくらいトラウマになっているそうです。

そういう嫌な思い出って大人になってもずっと後をひきますよね。

わたしも少なからず似た環境に身を置いていたので、監督のきもちがよくわかります。もし当時の恩師たちとマリオカートのネット対戦でばったり再会したら、積極的に赤甲羅をほうるくらいはするもの。いえ、むしろスタートと同時に「ヒャッハー!!会いたかったぜェェェ~~!!」とジープで逆走して、体当たりをするかも。

なんておふざけはさておき、『セッション』でも、行き過ぎた指導が生徒を追い詰める事件が描かれていました。それをあらわすのが、次のエピソードです。

ショーン・ケイシー事件

ある日の練習前、フレッチャーは「今日はまずCDを聴こう」と音楽プレイヤーの再生ボタンを押しました。そして涙ながらに、その曲の演奏者である元教え子ショーン・ケイシーが交通事故で亡くなったことを、団員たちへ聞かせます。後になって、この死は事故ではなく自殺だったこと、ショーンはフレッチャーの苛烈な指導を受けるうちに鬱病を患っていたことが明らかになります。

このシーンについて「どうしてあの鬼教官は涙を流したのか」「フレッチャーは同情を誘うためにウソ泣きをしたんじゃないのか」と、いろんな意見がかわされていました。

わたしは、あの涙の理由はいくつかあると考えています。まず「教え子を”死”という形でうしなった悲しみ」、次に「貴重な才能をうしなった悲しみ」、それから「自分の手で育て上げた天才を、結果的に自分の手で葬った悲しみ」。ここにも、夢と現実のはざまで「どうして?」と揺れる指導者のジレンマを感じます。

にせもの楽譜事件

それから、フレッチャーがニーマンに偽の楽譜を渡して恥をかかせた理由もまた、たくさん議論がかわされているみたいです。そのなかでもいちばん多かったのが「鬼教官は自分を辞職に追い込んだニーマンに復讐をしたかったから」というコメント。

うんうん、きっと自分の夢を邪魔したニーマンのことが許せなかったんじゃないかな。だからこそ自分のステージを乱してでも、その場にいたお客さんやバンドメンバーを動揺させてでも、彼から音楽人生を奪いたかったのかな?って。

そうかんがえると、フレッチャーはとっても独りよがりですね。とっても、とっても!自分からガールフレンドを誘っておきながら「君はおれの夢の邪魔になる」と一方的に別れを突き付けたニーマン君もなかなかのひとりよがりだけれど、鬼教官はそのさらに上をいくかんじがします。

ただ、それでもふしぎと、そんな生き方に人間くささを感じてしまうのです。

ラストシーンの見どころ

キャラバン

キャラバン

  • John Wasson
  • サウンドトラック
  • ¥250
ニーマンのあまりの激しいプレイでおおきく傾いたシンバルを、フレッチャー自ら元の角度になおすシーンで胸が熱くなりました。もともとは忌々しい復讐相手だったのに、口元に微笑みを浮かべてうっとりと酔いしれ、指揮をとる、その姿のなんて楽しそうなこと!

名門大学から離れた場所で、それも何の台本もなしにそうしたグルーブを体感しているというのが、なんだか皮肉めいているようにもかんじました。でも、もともと音楽ってそういうものなのかもしれませんね。

鑑賞したあと、ずっと余韻ののこる作品でした。今年のうちにまた観たいな。